ある日突然出会った台湾式ダイエットマイシェン(埋線)で14キロ痩せた最強雨オンナがお届けする台湾生活あれこれ 

正直台湾が嫌いになった時期もある(2021.10.24)


台湾で暮らして10年目に突入したわけだが
私の『台湾』に対する感情はおおむね下記のグラフのような曲線を描いて推移している。


ご注意
私は完全おひとり様で現地採用で働いています。
まぁそういった視点で見ていただければと思います。

ちなみに私は第二次台湾大嫌い期を乗り越え
奇跡のV字回復期の真っただ中におります。
ここは外国だと言い聞かせても
やはり解せない事は多々ある。

でも期待をしなくなった分楽にもなれたし
平穏に毎日が過ぎて行ってる気がしている。

何よりも台湾社会をフラットな気持ちで観察するということを始めたところこれがなかなか楽しい。

グラフにしてみた



右も左もわからなくて暇期(来台1か月目)


私は、2012年に語学留学で台湾へやってきた。
このときの中文レベルほぼゼロ初級。

知り合いもゼロ
自由気ままなお一人様で勝手に台湾へやって来た身なので
全部一人でなんでもやっていくのは当たり前。

旅行では4回ばかり来た事があったのだが
旅行と生活は全然違う。

日本語を話せる人が多いと言われている台湾だが
それはあくまでも観光地の話。
まず生活となると住むエリアからして違うし
観光地のように日本語が通じるわけはない。

豆乳1杯買うのも一苦労だし
今では簡単に買えてるタピオカやプリン牛乳も
ハードルが高くて買えやしなかった。
(砂糖や氷の量やら言い方わからなかったし)

日常生活は不便だったが
語学学校というものはこの世でいちばん楽しい学校であることは間違いない。
授業は1日2コマで、週に1度3コマの日があった。

奨学金生の場合は
テストの点数が悪いと奨学金が支給されなかったりするので
期末テスト前は大きなプレッシャーを感じている人々もいた。

反対に、自費で来た人々はお気楽に留学ライフを満喫していた。

台湾へ来て1か月ぐらいは友達も少なく
家と学校の往復が続いた。
土日も東区なんかうろうろしてみるけど
今みたいにプチ贅沢ができるわけでもなく
旅行と生活の違いを思い知った時期でもあった。

話が少しそれるけど
自力で台湾へやって来た人々の中には

『駐在員はなんでも会社が用意してくれるけど 私は俺は全部自分でやってきた!』

と謎めいたマウントをとる人がたまにいる。

彼らは彼らで重ためな使命を背負って來台している。
成果が出なければ早々に帰任させられるし
当然その後のサラリーマン生活にも影響する。

彼らを送り出した会社からしたら
一刻でもはやく出社して結果出しなさいよって話。
会社がいろいろ用意するのはしごくまっとうな話だし
そこでマウントをとるのはちょっと解せない。

それに駐在員の奥サマたちはどこに行けば〇〇が買える!という情報が豊富で、ひきこもりがちなわたしはいつもよく教えてもらっていた。

パーティーグッズが安く手に入る問屋さん街や
日本式の三角のおにぎりを握ってくれるお店
たこ焼きのタコの入手先などなど
その情報量は、代々引き継がれているのものなのかものすごく豊富だ

生活に根ざした情報が豊富で
大変お世話になったことは1度や2度ではない。
ネットで探してもわからなかった事も瞬時に解決したりする。

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先生の中文だけわかる(来台2か月目)


語学学校に通い始めて2ヶ月目ぐらいだろうか?
ゼロ初級者なりにも使える言葉が増えてきて
タピオカも買えるようになった。

問題ここからで
先生の中文を聞きなれている私たちは
一般の人が話す中文がほぼ聞き取れないという事態に陥る。

語学学校の先生は活舌も良く
語彙コントロールもしっかりできている。
故に生徒が知っている範囲の中文で話してくれる。
会話が成立するのは言うまでもない。

ところが一般の人はそんなわけにいかない。
聞いたこともない表現で話しかけてきてくれるのだ。

ある日の授業中で
教科書に載ってる道の聞き方なんかよりもタピオカの買い方教えてよ!!って話になり、先生が教えてくれたことがあったな。

実際道なんてアプリでどうにでもなるし
中文のテキストにもタピオカの注文の仕方載せるべきだと思う。

台湾楽しい期(来台3か月目~)


語学留学生なんてお気楽な身分
(何も背負ってるものがなければね)
言語交換をすると使える語彙が倍速で増えていき
それに比例してお友達も増えていく。

お友達と台鉄や長距離バスで小旅行にでかけたり
中秋節のBBQをしたりイベントもりだくさんで
貯金切り崩しているなりにも楽しく毎日を過ごせる期へと突入していく。
SNSの更新が急激に増えるのがこの頃。

この頃になると
豆乳1杯買うのも苦労していたお店の皆さんともある程度簡単な会話ができるようになっており、ちょっとしたサービスをしくれる時もある。
台湾来てよかったって思える時期でもある。

おぼえたての台湾語など話そうもんなら
そりゃもうめっちゃ歓迎してもらえる。
利害関係の無い皆といい関係が築けるのはある意味あたりまえなのだが、台湾の皆優しいな いい人だなって感情だけが先行するのもこの時期。

この時期は、世界は優しさに満ち溢れている~って錯覚を起こしそうになることもあった。

本当に楽しくていい思い出がたくさんできたのはこの頃だった。

第一次台湾大嫌い期到来(来台1年半後~)


個人的に第1次台湾大嫌い期が訪れたのは
台湾で就職して間もなくのことだ。

当たり前だが
語学学校では見えなかった台湾人社会が垣間見え、絶望したのがこの時期。

簡単に説明すると
①利害関係が絡んだ時の態度の豹変
②台湾名物メンツ
③日本社会も真っ青な縦社会


上述の状況に日常的に触れ
台湾大嫌い期の幕開けとなった。

新竹で働いていた時は
メンツ大好き縦社会万歳 強き者には媚びへつらい、弱き者には傲慢なふるまい。
上述のような対応の人々に非常によく出くわした。

席ではスマホのゲームに夢中な自分を棚に上げ
部下の女性につらくあたっている人もいた。
おもしろいことに営業系にそのような感じが多く
技術系となるとこれまた雰囲気が変わって来る。
(これは各企業の体質や文化にもよるので、一概には言えないだろう。)

女性にこのタイプは少なく(いるとは思うけど)
圧倒的に男性に多い。
当時の同僚の女性も
『偉そうだし大嫌いだけど、しょうがなく意見とか伺ってそれなりに立ててあげている』
とよく言ってた笑

この台湾名物メンツ。
ある程度の年齢をこえ、ある程度の地位を築いたマダム層にはそのような概念が一切なくなる。
仕事で粗相でもしようもんなら完膚なきまでに叩きのめしてくる。

会社でもそのような場面を目にしたことがある。
経理のマダムが当時所属の部署までやって来て
とある男性社員を完膚なきまでに叩きのめしていた。
その場で取り繕ってもマダムには通用しないのだ。

その後、台北の日系企業へと転職したのだが
そこも新竹と同じようなもんだった。
上司や日本人の上層部には媚びた笑いを浮かべてはみるが、裏では悪口三昧。

中文がわからないのをいいことに
目の前で悪口を言ったりなんてこともあった。
(あとでこっそり日本語にして教えてあげた)

タクシーに乗るとよく聞かれる
『日本の男性より台湾の男性の方が優しいでしょ?』という質問にも
『メンツ大好きマザコン野郎ばっかで吐きそう』
と真顔で返していたのもこの時期。
よくタクシーおろされなかったよねって話。

いつも思うけど
なんであんな確信をもって聞いてくるんだろう?
カバンなんて自分で持てるしエビの殻も自分でむける。

台湾の殿方は、表面的な薄っぺらい優しさを真の思いやりと勘違いしている人が多い。
肝心な時はママの言いなりである。

とにもかくにも
リアルな台湾社会に触れ、カルチャーショックを受けたのだった。

どうやって大嫌い期を脱出?


大嫌い期を脱出したのは2017年あたりだろうか?
脱出というよりは、
ある程度の折り合いがついたというのが正解だろう。
仕事なのである程度割り切れたというのもある。
もしこれが、義家族やそれに付随する親戚問題などであれば絶対に割り切れてはいなかっただろう。

台北にある日系企業に転職し、住み慣れた台北に戻れたのも一因だろう。

新竹に居た時は、自分の語学力に絶望したが
(一語一語くっついたように話す人が多く、何も聞き取れなかったし、今でも若干聞き取れない時がある)

転職すると周りの同僚は、語学学校で習ったような中文を話しており、失っていた自信(たいした自信ではないけど)を取り戻した。

今振り返ると
台湾大嫌い期に、台湾社会と自分が置かれてきた環境のギャップを観察してみたのもよかったと思う。

当たり前だけど、ここは日本ではないし
台湾の皆の言う日本が好きいい国だよね~というのは、あくまで旅行ベースだ。

日系企業に勤めているが、まわりを見渡してみると
どんなに日本語が巧みに操れる台湾の人でも
奥深く日本人の考え方を理解している人は少ない。
わたし自身はまだそのようなひとに出会ったことはない。

だがそんな中でも純粋なお友達との交流は続いており
台湾人の彼らに思いっきり愚痴り、共感しあいということができたのも大嫌い期を脱出できた理由だ。

彼らですら息苦しさを抱えているなら
私はわがままではないと妙な自信がわいてきたりもした。


つづく。